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​山里に響く薩摩琵琶の演奏を聞いてみませんか

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阿弥陀寺の琵琶
阿弥陀寺琵琶演奏
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 水野賢世 

 

阿育王山阿弥陀寺第38代住職。

 

1943年、神奈川県平塚市の大念寺に生まれる。

1967年、大正大学社会福祉学科卒業。

1974年、浄土宗吉水流詠唱指導普及委員、舞踊と歌の指導を行う。 

2005年、錦心流琵琶全国一水会「皆伝」取得。「第47回日本琵琶楽コンクール」で1位に選ばれた。水野森水(しんすい)の名で琵琶のプロ奏者として活躍。

 在学中に浄土宗教師資格を取得、24歳で阿弥陀寺に入山する。当時は今と違って境内までの車道がなかったため、国道からの石段をプロパンガスを背負って運んだ。一枚32kgもある畳140枚を、その時にご縁があった男女20数名に山門の下まで運んでもらい、そこからはたった一人で数日かけ、本堂まで持っていった。こうした苦労から、なんとしても車の通れる道路を作りたいと、まずは車道を作ることを決意。午前中は境内の整備や紫陽花の手植え、午後は各種稽古や本堂の修理、夜はカンテラをつけて、自らスコップとつるはしを手に道作りに励み、寺の再建に努めた。大きな石が出てくると、それを割るのに10日もかかったことがあった。

 700mの道づくりに12年、やがて舗装を完成させ車が入れるようになった頃は、着手して40年が経っていた。 

 お寺にいながらできる布教を模索し、58歳で琵琶を手に取る。「日本琵琶楽コンクール」に挑戦し、64歳で3位を取った頃より「琵琶説法」を始めた。その後、平成22年「第47回日本琵琶楽コンクール」で見事優勝を果たし念願の日本一となる。

 住職は実体験から次のように語る。「大事なのは諦めないことと、人とのご縁を大切にすること。荒れ寺も必ず復興できます。」と。

 現在は、三誉融辨(ゆうべん)上人の頃からの椿の植樹を再興し、「椿プロジェクト」に着手したばかり。本堂に「人生は70歳から」の文字を掲げる

 「琵琶を通して歴史と心のお勉強をしていただきたい。堅苦しいお話ばかりでなく、お寺に来る方たちに大いに笑って楽しんで若返っていただきたい。」

(「月刊住職」2015.3.p84-91.)

 琵琶の演奏と法話は約1時間。

 

動画は芝増上寺堂内で演奏する水野上人

演目は平家物語より壇ノ浦の合戦

 

琵琶の歴史 

 琵琶は古代ペルシャ(現イラン)が起源とされ、我が国には奈良時代にシルクロードを経て伝来した。砂漠地方で発展した楽器のため、保存には乾燥した場所が向いている。

 雅楽で用いる楽琵琶、楽琵琶よりすこし早くに伝わり、盲目の僧侶が布教で使った笹琵琶(盲僧琵琶)、平曲の伴奏の平家琵琶、室町時代末期に薩摩盲僧琵琶から派生した薩摩琵琶、明治時代に創設された筑前琵琶がある。
 薩摩琵琶は薩摩武士が教養の一つとしてたしなんだ琵琶である。大型の撥(ばち)を用いて、弦だけでなく胴も叩く迫力ある奏法が特徴である。大型の撥は一説には、いざというとき武器として使うためだったともいわれる。

 現在、薩摩琵琶は正派、錦心流、錦琵琶、鶴田流等の流派に分かれている。

琵琶と仏教

 歴史上琵琶の演奏が初めて行われたのは、東大寺大仏の開眼法要だったと推定される。神仏への讃歌と祈りをより効果的にせしめるために、笙や笛とともに合奏されたのが、東大寺正倉院に保管される楽琵琶である。
 盲僧琵琶は布教で持ち運びできるように小型につくられ、笹琵琶と呼ばれる。比叡山の根本中堂を建立する際、その土地に生息する大量のマムシを除けるために琵琶を弾き、地神供養を行った玄清法師は、その功績により法就院の号を
もらい、同名の寺を立てた。808年には成就院を、天台宗の叡山末流盲僧本寺とする許可を受け、「法眼」という地位を得て『地神陀羅尼経』を賜ったと伝えられる。
 現在は、天台宗玄清法流筑紫盲僧と常楽院系統の薩摩盲僧の2系統に分かれている。

(「仏教講座講義録 心のめざめ」(14)2008.2.p38-52)

 

 玄清法師の頃から一世紀後の平安時代、盲目の琵琶法師といえば、小倉百人一首の「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関(これがあの、旅立つ人も帰る人も、顔見知りの人も知らない人も、別れてはまた会うという逢坂の関なのだなあ)」で、人生の出会いと別れの無常を詠んだ和歌と、かるた遊び「坊主めくり」のルールに欠かせない蝉丸である(参考1)

 蝉丸は、もともとは御所の雑色(雑務をになう職員)として、宇多天皇第8皇子の敦実(あつざね)親王に仕えていたが、親王のそばで琵琶を聞いてるうちに本人も名手になっていた。雑色という職業の性質上、当初から盲目の僧侶ではなかったことが伺い知れる。

 『今昔物語』巻24第23話では、管弦の才に長けた宮廷音楽家の源博雅が、今は唯一蝉丸だけが知る「流泉」「啄木」という琵琶の秘曲を会得するために、逢坂山(現、滋賀県大津市)の庵に通い、3年目の夏に口伝されたという話が収められている。

 蝉丸は、博雅から「こんなところにいないで都で暮らしては?」と問われ「世の中はとてもかくてもすごしてむ 宮もわら屋もはてしなければ(この世の中はどのようにしたところで、こうして生きていることができます。宮殿にいようと藁(わら)の家にいようと、いつかなくなるのだから)」と答えている。百人一首に収録された和歌と同様に、蝉丸の歌には、物事は生滅を繰り返し、永遠ではないといった無常の世界観が流れている。

 以上、大型の楽琵琶は神仏への祈りと優美な世界を表現する雅楽の伴奏楽器として伝来し、貴族社会において演奏が教養の一部になった一方で、小型の笹琵琶は盲僧が、土地神への供養、祈祷、祭文で用いる仏具のひとつとなった。

 宗教儀礼においてテンポよく奏でられる盲僧琵琶は、地神祭りや荒神祓いの祭文をリズミカルに唱えるのに対し、蝉丸や鴨長明に代表される僧形の隠遁生活者らが、ひとり静かに弾く琵琶の音と詠みあげる和歌には、自然災害、疫病、遷都、人の栄華盛衰等、社会的背景の影響のもと、因果や無常といった仏教の思想が取り入れられている。やがて琵琶奏者が語る仏教の無常観が浸透した物語には、場面に応じた琵琶の変奏がアレンジされるようになった。こうして特定の寺社に属さない琵琶語りの奏者たちは、やがて職能組織を形成し琵琶浄瑠璃や軍記物、あるいは平曲(平家物語の伴奏)等を奏でる集団として発展していったと考えられる。

(参考1)「坊主めくり」とは

参加者が順番にかるたの山札を1枚ずつ札を引いて、山札がなくなったとき、一番多く札を持っていた人の勝ちという、いわゆるカードゲームである。ルールには地域性があり様々異なるが、僧形12~15人(坊主頭を含めた場合)のうち、蝉丸を引き当てると特別なルールが発動し、状況が一変してしまうのが共通している。

  • 1回休み。

  • どんなにたくさんの札を集めていても、ビリが確定する

  • みんなの手札がもらえる

  • 全員が今持っている手札を捨てる

  • 罰ゲームを受ける・・・など。
    なぜ、蝉丸の札がトランプのジョーカーのようなトリックスター的な役割を担っているのかは不明。しかし、プレーヤーは蝉丸の句と連動した物事は変化し続け同じ状態でとどまらない」という無常について、その言葉の意味を知らず知らずのうちに体験できる仕組みになっている。   

 

琵琶 演奏と法話 毎日11時~

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     2名まで、ひと組 3,000円

  

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