top of page
阿弥陀寺の洞窟
阿育王山

阿弥陀寺の歴史と文化財

●弾誓(たんせい)上人

 慶長9年(1604)木食遊行聖(ひじり)である弾誓上人が、阿弥陀寺本堂の裏、塔の峰山腹350mほど登った所にある入り口幅7m、高さ1.85m、奥行き7m程の自然洞窟で6年間修行されました。

 この間に、小田原城主 大久保忠隣(ただちか)公より境内地として山林24町(約7万2千坪)の寄進を受け、阿弥陀寺を開山しました。翌年は弟子念光の眼病治療のために杖で岩をつき温泉(のちの塔之澤温泉)を出したと伝えられています(『法誉念光覚書』元和2年(1616)より)。

 当山は山号を「阿育王山」(あいくおうざん)と申します。弾誓上人がある日、一心に念仏を唱え洞窟から出ますと、紫雲たなびく山林になにやら光が見えました。不思議に思い行ってみると古い石塔が倒れていました。光る地面を掘ると五層の舎利塔が出てきました。この塔こそ仏舎利(釈迦の遺骨)を納める為にインドのアショーカ大王が造った八万四千の宝塔の一つで、日本には三ヶ所に置かれたと伝えられています。山号のいわれとなりました。

 弾誓上人の修行窟には、慶長12年(1607)と刻まれた諸霊供養のために造立した五輪塔や、8月12日と銘のある自筆無縫塔、あるいは阿弥陀仏四十八願になぞらえたと推察される圭頭板碑48基など、慶長期の特徴を示す貴重な郷土資料が残されています。

 弾誓上人を含む木食遊行聖たちの宗教活動は、多数作善の信仰(善い行いをたくさんするとご利益があるという考え)により、誓願を起こし多数の仏像に作善功徳を込めました。これまでの日本仏教史の中では、遊行僧ら「ひじり」たちの信仰と実践によって造立した像等は、美術的に稚拙で価値がないとされ、彼らの作った和歌は類型的で平凡だと評価されてきました。しかし最近では、聖の誓願や宗教性を庶民仏教の近世的発現として高く評価する人々が増加し、注目されています。

江戸時代

 幕府の「寺院法度」により、どの寺院も大宗派の本山ー末寺の系列(本末制度)に組み込まれることになりました。幕府の宗教統制下から離れて活動し、捨世派とよばれた聖(ひじり)の代表ともいえる弾誓上人が開祖の阿弥陀寺ですが、元禄年間には芝の本山増上寺の末寺となっていました(『増上寺証挙定書』元禄16年(1703)より)。

 本堂は天明4年(1784)ごろ小田原市久野の庄屋の家を移築した民家造りです。

百万遍数珠

●百万遍転法輪(箱根町指定・重文)

 本堂入り口にある百万遍念仏の数珠車は非常に珍しいもので、天明4年(1784)に造られたものです。弾誓上人の日課念仏の教え(一日に百篇とか千篇とか決めて念仏を唱えること)を受けて、小田原在井細田村の宇誓という人が、一日千遍の念仏を唱える仲間を集め、この人達の名前を数珠車に刻み、毎日住職に廻してもらえれば百万遍の念仏を唱えたことになると考え、造ったと伝えられています。

 天明期は、暖冬が続く異常気象により田畑が乾いてしまい、浅間山が噴火して日光が遮られる影響などが起こり作物が育たず、さらにマグニチュード7.3の大地震の発生もあり、天明2年(1782)から8年(1788)にかけて江戸四大飢饉のひとつとされる天明の大飢饉が起こりました。人々が念仏に救いを求め転法輪を作ったことの背景に、こうした出来事が背景にあったと想像されます。

阿弥陀寺の本尊

●本尊 阿弥陀三尊(箱根町指定・重文)

 本尊はもと江戸本所の回向院の旧本尊でした。元禄年間に回向院4世の喚霊上人によって寄進されたと伝わります。金箔が押された本尊の胎内には580人の結縁者の名前があり、また黄檗山萬福寺五代 高泉性潡の名が見えることや、「阿育王山」と書かれた山門の扁額が高泉性潡の筆になることを考えると、本尊は高泉和尚の勧めによって回向院から寄贈されたものと考えられています。徳川綱吉公とつながりがあったというご縁もありますが、黄檗宗の僧が阿弥陀如来像の造立に関わることは珍しいとされます。

 中央に阿弥陀如来、両脇侍に蓮台を持つ観音菩薩、合掌するのは勢至菩薩です。阿弥陀様の御衣は左から斜めに右肩を出してつけています。僧侶が修行でつける如法衣(七条袈裟)と同じお姿です。観音様と勢至様は正座しているように見えますが、すぐに立ち上がれるように大和座りをしています。このようなお姿を来迎形式といいます。

●徳本上人の石碑

 徳本(とくほん)上人は江戸後期の宝暦8年(1758)丹波(現:和歌山県)生まれの浄土宗の高僧です。弾誓上人と同様に木食草衣で日本全国を念仏行脚し、紀州徳川家の帰依をうけるなど民衆から大名にまで支持されました。関東方面への勧化(かんげ:教えをひろめること)は文化11年(1814)に増上寺大僧正からの招聘に始まりました。上人は箱根、小田原を経て翌12年(1815)は相模、伊豆を摂化(せっけ:教え導くこと)し、2年後の14年(1817)もまた相模、武蔵へ勧化の旅をされています。

 徳本文字の「六字の名号」は、丸みを帯びた「南」と一を横に伸ばした「無」が特徴です。名号が刻まれた石碑は、小田原に多数残されており、阿弥陀寺の石碑は、刻まれた年代がちょうど箱根・小田原における勧化時期と重なります。

 

  表・徳本文字:南無阿弥陀仏

  裏:南無阿弥陀仏 五万日大回向

  右側面:文化十三年丙子(ひのえね)年三月初八日

  左側面:施主 岩村 

         朝倉伴蔵

      松積施主 長周

           五味清左衛門 

   

 「五万日」と約136年の年月に相当します。これから「五万日」を目指す目標としてなのか、あるいは複数の人々によって達成されたお念仏行の日数なのかは不明ですが、200年前に箱根で徳本上人による念仏講がひろめられたことが伺われる名号碑です。

bottom of page